常陸大宮に移住して1ヶ月半が経ちました。
住民の方は皆さんとっても優しくて、もうすっかりここが好きになりました!
毎日しあわせ~♪で上機嫌な木元です。
さて今回は東京より移住し、いちご農家として新規就農した都竹大輔(つづくだいすけ)さんをご紹介します。
今は常陸大宮の住民として、地域のためにできる事を実践している素敵な常陸大宮人です。
2005年、32歳で奥さんと2人のお子さんを連れて移住し、未経験で新規就農。
現在に至るまでの道のりと、今後の夢についてお話を伺いました。
きっかけは“こども”
元々東京で会社員として働いていたのですが、いつかは独立して何かしたい、と思っていたそうです。
しかし、都竹さんを大きく動かしたのはこどもを育てるにあたって東京でいいのか…という思いでした。
「光化学スモッグ注意報が発令されると、こどもたちは外で遊ぶことができない。
元気いっぱい遊ばせてあげたいのに東京にはその環境がない。
外に出られないこどもたちを見ているとかわいそうだった。」
そうして移住先の候補として、各地を見て回るようになったそうです。
決め手は“景色の美しさ”
色々な地域を見て回る中で、都竹さんは運命的な出会いをします。
それは常陸大宮市の御前山地区。
ここは清流那珂川と山々が織り成す景色が美しく、日本の原風景が残る地区です。
都竹さんはこの風景に一目惚れし、即移住を決めました。
“よそ者”が新規就農する苦労
いちご農家になるにあたって一番最初に苦労したのが、土地を借りることでした。
地主の方に直接お会いして、土地を貸して頂けないかお願いに上がっても「よそ者には貸せない。」と断られてしまったそうです。
この手の話を聞くたびに、私は差別のように感じていたのですが、都竹さんはこう話してくれました。
「畑を貸すのは、先祖代々受け継がれてきた大切な土地を人に委ねるという事。
それを全く知らない赤の他人に、しかも全く農業経験もない人に、簡単に貸せるわけがないよね。」と。
(都心でアパートを借り、2年程ですぐに引越すような生活をしていた私にとって、この先祖代々の土地に対する愛情はなかなか気付けない感覚でした。
自分目線で物事を捉え、住民の方の土地に対する愛情を勝手に“差別”と思い込んでいた自分を反省しました。)
就農のための大きな土地は借りれなかったものの、住民の方の1人が自分の畑の一部を貸して下さり、都竹さんはそこで家庭菜園を始めました。
そしてこれが、畑を借りる道へと繋がったのです。
家庭菜園で一生懸命に農作業をする都竹さんの姿は住民の間で広まり、その話を聞いた地主さんが「この人になら」と土地を貸して下さいました。
移住による一番の変化は“軸”
事務所でお話を伺っていると、お仕事をされていた奥さんがふと「消費するばかりの生活から生産する側になると、心のゆとりが全然違う。」とおっしゃったのがとても印象的でした。
現在都竹さんの経営するつづく農園では、都竹さんと奥さん、数名のパートさんが働いています。
東京で生活していた時も夫婦共働きでしたが、今は仕事というよりは生活という感覚だそうです。
それはきっと家族を軸として生きることができるからなのだと思います。
消費ばかりの生活では、お金が必要=仕事が軸の生活になってしまいます。
生産する側になって心の余裕ができたというのは、生きるうえで大切にしたい軸を崩すことなく生活ができるからなのでしょう。
実際に「移住して収入は減ったけど、こっちではそんなにお金を使う必要がないから困ることもない」そうです。
将来の夢は“ベリー街道”を作ること
実は、都竹さんはいちごだけではなく30品目近い野菜を育てる畑も始めています。
それには2つの理由があるそうです。
ひとつは、つづく農園で働いてくれるパートさんに年間通して働ける場所を提供したいから。
そしてもうひとつは、高齢化に伴い耕作放棄地が増えてしまった御前山の景観を守りたいから。
また、精神的な病気を抱えている人に社会復帰のための実習地として農園を開放しています。
全てには「地域のためにできる事をやりたい」という想いがあるのだそうです。
都竹さんの意識を大きく変えたのは、5年前の那珂川の洪水でした。
那珂川沿いにあるつづく農園は、この洪水により深刻な被害を受けました。
その時、地域の方々が助けて下さり「自分一人の力でここまで来たのではない」と改めて気付かされたと言います。
そこから、地域のために恩返しをしたいと思うようになったそうです。
「ゆくゆくは新規就農を目指す人を集めて、働く人も地域も輝くベリー街道を作ることが夢なんだ。」
都竹さんはとっても素敵な笑顔でそう語ってくださいました。